善悪婦人伝
ゼンアクフジンデン
著者 画工 荒川八十八
初版年 明14
刊行年 明14
サイズ(判型) 18×12��
解説 彩色木版全10図
彩色木版刷 木版画 版画 彩色木版画 浮世絵 ukiyoe 錦絵
荒川八十八 または豊原 国周(とよはら くにちか、1835年-1900年は、幕末から明治にかけての浮世絵師。
嘉永元年(1848年)三代目豊国のもとに入門し、嘉永5年(1852年)には豊国の役者絵の一部を描き、門人八十八と署名する。安政2年(1855年)の頃より、最初の師である豊原周信と豊国の名前を合わせた画名である豊原国周と署名するようになる
。国周は自らも認めているほどの変わった性格をしていたという。
住いと妻を変えることが癖で、本人によると転居は117回であり、同じく転居の多かった葛飾北斎と比べ「絵は北斎には及ばないが、転居数では勝っている」と誇っていたという。
近所の空気が気に入らないといっては移転し、版元が絵を依頼しようとしても居所がわからず困ったという。「今日転居して来て、明日厭気がさすと直ぐ引越し、甚しい時は一日に三度転じたが、その三度目の家も気に入らなかったが、日が暮れて草臥れたので、是非なく思い止まった」という話まである。
妻も40人余り変え、長続きすることは無かった。酒と遊びが大好きで、画料が入っても宵越しの金は持たないとばかりにすぐ使ってしまい、晩年は着物一枚で過ごし舞台に出る役者をスケッチする「中見」の際には版元から着物を貸してもらうほどだったという。
しかし困っている人を見ると助けずにはいられず、時には来客のものまで与えてしまうという非常識ぶりを発揮した。そこで地本問屋の主人などは、国周を訪問する際には高価なものを携帯することを避けたという。
国周の仕事ぶりをうかがわせるエピソードとして次のようなものがある。福田という版元は芝居が好きで役者絵を多く出版していた。あるとき、国周が九代目市川團十郎の姿を描いた版画のもとになる下絵を描いたが、團十郎がそれを検分したとき無くなってしまった。とても良くできていたのでもう一度下絵を描いてくれと頼んだが、国周は同じものは二度と描かないと断ったという。国周の絵師としての誇りがこのような態度をとったのだろうが、いかにも江戸っ子というような印象を与える挿話でもあると思われる。